星屑温室のリュネ
惑星アステラの夜は、静かだった。
空には、恒星よりも巨大に見える青白い環状星雲が広がっている。大気圏上層に浮かぶ微粒子が星雲の光を反射し、夜空そのものが淡く発光していた。
そのため、この星には完全な闇が存在しない。
海も、森も、都市も、夜になると薄青い光の中へ沈んでいく。
アステラは、植物の惑星として知られていた。
大陸の七割を巨大森林が覆い、樹木は雲より高く成長する。地表には無数の発光植物が群生し、河川は夜になると銀色に輝いた。
その惑星の北半球、巨大な樹海の中央に、「星屑温室」と呼ばれる施設が存在する。
温室と言っても、小さな建物ではない。
直径数十キロに及ぶ半球状構造体で、内部には数百万種類の植物が保存されていた。
外宇宙から収集された植物。
絶滅した古代種。
人工的に改良された発光植物。
そして、誰も名前を知らない異星の花々。
その温室で働く少女がいた。
名を、リュネという。
十七歳。
銀色に近い白髪と、深い青色の瞳を持つ少女だった。
彼女の瞳は、夜になるとわずかに発光する。
それはアステラ人特有の遺伝形質だった。
リュネは、植物管理士見習いとして温室に暮らしていた。
毎朝、彼女は巨大な温室区画を巡回する。
湿度を調整し、発光苔の成長を確認し、外宇宙植物の胞子を採取する。
温室の内部は、まるで一つの小さな惑星だった。
熱帯区画では巨大な葉が空を覆い、砂漠区画では透明植物が砂丘に埋もれている。深海植物区画には人工海洋があり、夜になると青い発光藻類が波間を漂った。
リュネは、そのすべてを愛していた。
彼女は人と話すより、植物を観察する方が好きだった。
温室の植物たちは、静かだった。
だが、確かに生きている。
葉を広げる速度。
胞子を飛ばす周期。
光る時間帯。
彼女はそうした小さな変化を見るのが好きだった。
ある夜、リュネは温室の最深部へ向かっていた。
そこは「零区画」と呼ばれる場所だった。
通常の職員は立ち入りを許可されていない。
零区画には、危険性不明の植物群が保管されているのである。
だがその夜、温室管理AIが異常信号を検知した。
リュネは点検のため、単独で零区画へ向かったのだ。
通路を進むにつれ、周囲の空気が変わっていく。
湿度が高い。
気温が低い。
壁面には黒い蔓植物が這い、天井から青白い胞子が雪のように降っている。
零区画の中央には、巨大な樹木が立っていた。
幹は透明だった。
内部を光が流れている。
枝先には星のような花が咲いていた。
その植物の名を、誰も知らない。
外宇宙探査船が、数百年前に無人星域から持ち帰った存在だった。
「……きれい。」
リュネは思わず呟いた。
すると、その瞬間だった。
透明樹木の内部を流れる光が、一斉に強く脈動したのである。
空気が震える。
周囲の発光胞子が、ゆっくり空中へ浮かび上がる。
そして、リュネの瞳が青白く光った。
彼女の視界が変わる。
温室の壁が消える。
代わりに、見たこともない風景が広がった。
赤い海。
黒い空。
巨大な植物群。
空中を漂う光る種子。
その世界では、大地そのものがゆっくり呼吸していた。
リュネは気づく。
これは幻覚ではない。
植物が見ている記憶なのだ、と。
透明樹木は、遠い異星から運ばれてきた存在だった。
そして今、何らかの理由で、リュネにその記憶を見せている。
映像の中で、赤い海が揺れる。
巨大植物群が風に鳴る。
空には三つの月が浮かんでいた。
そのとき、リュネは奇妙な感覚を覚えた。
懐かしい。
初めて見る世界なのに、なぜか涙が出そうになる。
すると、視界の奥で何かが動いた。
少女だった。
赤い海辺に、一人の少女が立っている。
長い黒髪。
白い衣。
彼女はこちらを見ていた。
まるで、リュネを知っているかのように。
次の瞬間、映像が消える。
リュネは零区画の床に座り込んでいた。
呼吸が乱れている。
透明樹木は、再び静かに光っていた。
翌日、リュネは温室主任へ報告を行った。
しかし主任は、驚かなかった。
「やはり、君だったか。」
主任は静かに言った。
彼は高齢の研究者だった。
長年、零区画の植物群を研究している。
「あの植物は、特定の人間にだけ反応する。」
「……どういうことですか?」
「まだ分からない。ただ、君の家系には特殊な共鳴能力がある。」
主任は古い記録映像を見せた。
そこには、若い頃のリュネの母親が映っていた。
彼女もまた、透明樹木の前で異星風景を見ていたのである。
「母も……?」
「彼女は調査中に消息を絶った。」
リュネは息を呑んだ。
母は幼い頃に失踪したと聞かされていた。
だが、その原因が零区画にあるとは知らなかった。
主任は続ける。
「透明樹木は、単なる植物ではない。」
「あれは、記録媒体だ。」
「記録……?」
「植物全体が、一つの巨大な記憶装置になっている。」
異星文明の技術。
植物と情報記録を融合した生命体。
透明樹木は、滅びた文明の記憶を保存している可能性があった。
その夜、リュネは再び零区画へ向かった。
理由は、自分でも分からない。
だが、あの赤い海をもう一度見たかった。
透明樹木の前へ立つ。
花が淡く光る。
そして再び、世界が変わった。
今度は昼だった。
赤い海の上を、巨大な浮遊植物群が漂っている。
空には、光る胞子が流れていた。
そして、あの少女がいた。
彼女は静かにリュネへ近づく。
「やっと来た。」
少女はそう言った。
声は直接、頭の中へ響いた。
「あなたは……誰?」
「わたしは、最後の記録者。」
少女は海を見つめる。
「この星は、もう存在しない。」
リュネは周囲を見渡した。
風が吹く。
赤い海が揺れる。
あまりにも美しい世界だった。
「滅んだの?」
「ええ。」
少女は頷いた。
「わたしたちは、世界を守れなかった。」
空を見上げる。
そこには巨大な黒い影が浮かんでいた。
星そのものを覆うほどの構造体。
「あれは……?」
「収穫機。」
少女の声は静かだった。
「宇宙には、生命そのものを資源として回収する文明がある。」
巨大構造体が空を覆う。
海が黒く染まる。
植物群が崩れていく。
赤い海が燃える。
リュネは息を失った。
だが少女は、穏やかな表情のままだった。
「だからわたしたちは、記憶を植物へ託した。」
「世界が消えても、美しさだけは残るように。」
透明な花が風に揺れる。
その瞬間、リュネは理解した。
透明樹木は、生き残りではない。
滅んだ星の記憶そのものなのだ。
少女はリュネを見る。
「あなたは、覚えていて。」
「忘れないで。」
「宇宙には、こんな世界もあったと。」
次の瞬間、映像が崩れた。
リュネは再び零区画へ戻っていた。
だが彼女の頬には涙が流れていた。
それからの日々、リュネは透明樹木の研究を始めた。
彼女は毎夜、植物の記憶を見る。
滅びた星々。
美しい海。
巨大森林。
発光する空。
宇宙には、数え切れないほどの世界が存在していた。
そして、その多くが既に失われている。
だが記憶は残る。
植物の中に。
光の中に。
静かな温室の中に。
数年後、リュネは星屑温室の新しい主任となった。
彼女は新たな植物を収集し続ける。
滅びゆく星々から。
忘れられた文明から。
誰も知らない異世界から。
彼女は知っていた。
美しい世界は、消えてしまうことがある。
だからこそ、残さなければならない。
夜。
温室の天井越しに、青白い星雲が輝いている。
発光植物が風に揺れる。
透明樹木の花が、静かに光る。
リュネはその前へ立ち、目を閉じた。
すると再び、遠い異星の海風が聞こえる。
赤い海。
黒い空。
そして、あの少女の微笑み。
宇宙には無数の世界がある。
そして、その一つ一つに、美しい記憶が存在している。
リュネは今日も、それらを守り続けていた。
静かな星屑温室の中で。